「開願」
 もやもやとした夢の中でもがく感覚を残しつつ目が覚める。カーテン越しの強烈な春の日差しが部屋の温度を急激に引き上げたようだ。センベイ布団の中で軽く伸びをして起き上がる。ここだけは涼しいはずの冷蔵庫の中は空に近い。ある意味確かに寒々しい光景だ。野菜室の隅のほうに使いかけの生姜が申し訳なさそうに転がっている。3週間前から部屋は急に狭くなり、冷蔵庫は逆の様相を呈していった。なんてことはないさ。また、部屋が広くなり、冷蔵庫にはモノがあふれ、なによりも明るい雰囲気が部屋に充満することもあるかもしれない。
 妄想が膨らんだついでに食欲は引っ込んだようだ。朝の一杯の牛乳(これだけはかかせられない)を胃に流し込んで外へ出た。今日は日曜日。全国的に休日のはず。しかし、どこに引っ越しても朝早くから遊びまわる子供たちを見かけることはほとんどなくなった。かわりに見かけるのは犬の散歩・ウォーキングに動き回るジャージ姿だ。やけにせかせかと動き回るそれらの動力源は体の要求に反した流行と義務感にちがいない。
 バイクに乗って甲州街道を西へ向かう。朝の流れはスムーズだ。ひたすらに、ただひたすらに都会に背を向け、遠ざかる。峠をひとつ越えるとシールドに一瞬白いものが広がってすぐ消えた。この一呼吸でなんとなく生まれ変わったような気分になれる。はっきりとした地形変化を感じられない、無差別に続く高速道路ではこうはいかない。しかし、峠を降りるにつれて、またここかといった絶望感に襲われる。何処に行っても同じこと、ならどこに行かなくても同じこと。どこにでも同じような町はあり、人はいる。 
 夕方まで近県をうろついた挙句に誘蛾灯に誘われる昆虫のごとく都会へ帰っていく。馴染みの店で夕食を済ませ、軽く一杯引っ掛ける。黄金色に目をあてていると、長い髪とちょっと舌足らずな口調がよみがえってくる。何もかもが早すぎた。自分が何を本当に求めていて何を求められているか、わからないままに時が過ぎていったあの頃・・・。怒って、泣いて、そして落ちていった・・・。携帯に残したメモリーは消せないままになっている。二度とかかってくることはないとわかっていても、心のメモリーともども消せないままに残っている。 
 ・・・と携帯にあのナンバーが突然点滅した。まさか、そんなわけはない。震える手でボタンを押し、耳にあてる。洩れてきた声は・・・そうだ、その声だ。どんなに離れていても必ず1日1度は聴かないと落ち着かなかったあの声。飽きもせず、昼夜を問わず何時間でもしゃべっていたあの頃がよみがえる。あまりに長くしゃべりすぎて、電話口で眠っていると気づいてもその眠りを妨げないように、続けて一人でしゃべっていたこともあったっけ・・・。突如として現れた懐かしい香水のかすかな香りが妄想を遮断した。ハッとし、あわてて周りを見回しつつ、携帯に集中する。が耳には回線の切れた音しか聞こえない。画面には非表示設定の文字が浮かび上がる。
 ・・・そういうことか。呆然としつつ、体験したばかりの感覚が急速に薄れていくのを必死につなぎとめようとし、それがある種の冒涜(ぼうとく)のように感じた。窓から空を見上げてみる。星が激しく瞬いている。・・・明日はたぶん、いやきっと雨だ。

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作:shun