「最終の映画館」 <おすすめBGM>Foever Friends by REEMEDIOS(打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?サントラ収録)

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 食事が終わり、家路に向かう車の中でも僕等は映画の話しを続けた。帰ると母やまだ小さかった弟たちはもう床に就いているので、僕等は音をたてないように侵入しなければならなかった。家の門が鉄製だった為に高度な技術を要求された。父が車庫入れをしている間に速やかに終了させなければいけないこの作業は、もちろん僕の仕事だった。重い鉄門はただ動かすだけではいけない。一回レールをはずして芝生の上を転がさないといけないんだ。父が通れる程の幅を開け、もとの位置に戻す。そして玄関のドアをこれまた音をたてないように開け、父を待つ。父は遅い風呂へそのまま向かい、撲は小さく「おやすみ」と告げてからおみやげを居間のテーブルに置いて床に就く。おみやげは大抵寿司の詰め折りだった。父としては僕だけひいきにしていると思われたくなかったのだろう。弟たちは「最終の映画館」を知らない。まだ小さかったからだ。翌日また、テーブルの上のおみやげの訳をきっと聞くだろう。でも僕はその訳を知らないと言い放つだろう。父と僕の約束、二人だけの秘密だから。
 大人は秘密が多いものだ。 我が家のヴィデオデッキの導入は、世間に比べて遅いほうだった。せがんでも買ってくれないことに僕は業を煮やしたものだが、父が意図的にそうしていたと気付くには、後もう少し時間が必要だった。つまり、ヴィデオが導入されてから「最終の映画館」へ行く回数が減っていったのだ、父はその事を懸念していたのだ。丁度、映画の興行収入がヴィデオのレンタルに押され始めた時期と同一して。僕はそんな重大な事態が起っていようとは露知らず、ようやく我が家に導入された手軽なヴィデオに興じていた。時々、父に映画を誘われたが、忙しいと断わってヴィデオを観ていた事もあった。年齢的なものもあるのだろうが次第に父との距離が離れていくのを感じた時期でもあった。代わりに弟たちが「最終の映画館」へと行くようになった。映画は時々それぞれでは観には行っていたが、「最終の映画館」はそれ以来父と僕の間から姿を消した。僕の中ではまたいつか父と二人で「最終の映画館」に行けるものだと、また最前列で観れるものだと信じていたが、それも果たせずに突然いってしまったことが残念でならない。
 身近な人の死に直面する度に、身近な人の死を思う度に様々な『何故』が僕を覆うんだ。僕だけじゃない、きっとみんなをも覆うことだろう。一体この先には何があるかと旅を始める冒険者にも、24時間で地球を一周するのだから自転のスピードは一体時速何キロなんだと計算を始める数学者にも、この『何故』は覆うだろう。いつの時代も、いまの僕も、あしたの子供たちにも。「死」について考えることはいつだって、解決が見えない作業である。永遠に釈然としないままで、恐怖に駆られて僕等は邁進する、それだけだ。そんなことは解っている。それでも僕には『何故』が覆うんだ。死装束をまとい、悔しそうな顔で棺桶に眠る父に向かって、僕は映画の話しをしていた。二人で観た沢山の作品の話しを…。今度いつ一緒に映画に行けるかと問いかけてみたが、返事はなかった。当然だ。涙がでたんだ。さんざん泣いたのにまた涙が…。

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作:Grecoviche

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